ブーメラン日記

いろんなものへの感想を書いていきます

平成の終わりとゾンビランドサガ

ゾンビランドサガ』というアニメをご存知でしょうか? 

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話題になっていたので知っている人も多いかと思います。このアニメはあらすじだけ書いてしまえば、「ゾンビとして復活した女の子たちが佐賀を盛り上げるためにアイドルになる」というお話です。アイドルアニメとして非常に出来が良いので評判になっていると考えることもできますが、僕はそれだけでこの作品が売れているわけではないと思っています。この作品が愛されるのは、「若者へのメッセージ」を持っているからです。

 

主人公たちのアイドルグループ「フランシュシュ」は色々な時代の様々な背景を持つゾンビたちで構成されています。ゾンビたちの生前はスケバン、昭和アイドル、平成アイドル、子役、花魁。これらは全て、かつて多くの人が夢中になったものです。皆を魅了する人もまた、必死に頑張っている。たとえ必死に頑張っていたとしても時が流れるにつれて、そのコンテンツから人は離れていく。この二面性が作品のテーマの一つなのでしょう。

 

一方で主人公のさくらはゾンビになる前の記憶が存在しないキャラとして描かれます。

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どうしてさくらは記憶がないゾンビとして描かれているんでしょうか。ストーリーの都合といえばそれまでなのかもしれませんが、僕はさくらが「何者にもなれる可能性を持った若い世代」を表現しているからだと思っています。

物語の終盤、さくらは生前の記憶を取り戻します。生前のさくらは努力を重ねるも、いつも運命に翻弄されて失敗してしまう人生でした。記憶を取り戻したゾンビのさくらは自分が「持っていない者」だと嘆き、アイドルのステージに立てないと言います。

こういった描写は自分を「持たざる者」だと認識する若者のメタファーなんじゃないでしょうか。震災、不景気、高齢化、暗いニュースと共に育ち、不安な未来が待っている若者は自分を「持たざる者」だと悲観しがちです。

そして若者たちはやがてコンテンツを楽しむ側から作る側になっていきます。そこで若者たちは思います、「持たざる者」の僕たちに人を魅了できるのか、やがて人が離れていくならコンテンツを作る意味はないんじゃないかと。そういった若い世代の嘆きがさくらの葛藤に込められているのでしょう。

 

フランシュシュのプロデューサーである辰巳は悩むさくらに言います、「お前は持っていないかもしれないが、俺は持っている」と。このセリフは様々な解釈ができると思いますが、さくらと同世代である辰巳のセリフということを考えるなら「生まれた時代で持っているかどうかなんて決まるわけない」と解釈できるのではないでしょうか。

 

そして終盤さくらは他のメンバーたちに支えられながらライブを成功させます。かつて人を魅了したコンテンツというのは、夢中になった人の血となり肉となってその人を支える。そういった意味で人が離れていってもコンテンツは死なない、だから人を魅了したコンテンツというのは「ゾンビ」なんでしょう。だからこそ人を夢中にさせるコンテンツを作る事に意味はある、この作品はそう言っているんじゃないでしょうか。

 

平成が終わり、新たな時代がやってくる。待っている未来は不安な事ばかりかもしれない。しかし、きっと僕らを魅了する新しい何かが待っている事でしょう。その新しい何かを作る若者の一端として頑張って生きていきたいですね。